美輪(丸山)明宏--『ヨイトマケの唄』『ヨイトマケの唄』 1965年リリース 作詞・作曲:丸山明宏
発表当時は
美輪明宏の旧芸名である「丸山明宏」名義だった
1971年、読経中に『美輪』の字が浮かび、神様が下さった名前だと思い、姓名判断を調べると完全無欠な画数だった為丸山明宏<から美輪明宏に改名。
作詞・作曲を開始した切っ掛けは、興行主の手違いで行うことになった筑豊の嘉穂劇場のコンサートである。当時きらびやかな衣装でシャンソンを歌っていた美輪明宏は、炭鉱町でのコンサートに乗り気ではなかったのだが、炭鉱労働者たちが安い賃金をつぎ込んでチケットを求め、客席を埋め尽くしている光景を見て衝撃を受け、「これだけ私の歌が聴きたいと集まってくれているのに、私にはこの人たちに歌える歌がない」と感じて、労働者を歌う楽曲を作ると決意したという。
美輪明宏が幼少時に一緒に育った友人の亡き母を回顧する歌である。
主人公の過去には幼少時、母親の職業がきっかけでいじめを受けた悔しさなども折り込まれている。
「ヨイトマケ」とは、かつて建設機械が普及していなかった時代に、地固めをする際に、重量のある槌を数人掛かりで滑車で上下する時の掛け声であり、美輪明宏によれば、滑車の綱を引っ張るときの「ヨイっと巻け」のかけ声を語源とする。
初めて発表したのは1964年(昭和39年)、リサイタルにて歌唱、その後1965年(昭和40年)、NETテレビ(現在のテレビ朝日)『木島則夫モーニングショー』の「今週の歌」で発表したところ反響が凄まじく、放送局には10万通を超える投書が殺到、異例のアンコール放送となった。
この歌がきっかけで、同性愛者であることをカミングアウトして以降、低迷していた美輪明宏が、再び脚光を浴びることになった。
白のワイシャツに黒の細身のスラックス姿で登場し、戦後の復興期の貧しい少年から、高度成長期にエンジニアへと成長した凛々しい青年を演じた美輪明宏の姿は、多くの視聴者の胸を打った。
発表後間もなくして歌詞の中に差別用語として扱われる「土方」(どかた)「ヨイトマケ」が含まれている点などから、日本民間放送連盟により要注意歌謡曲(放送禁止歌)に指定された事でそれ以降民放では放送されなくなる。
この制度自体は1983年に廃止されたが、実際は廃止された後もしばらくの間この制度の影響を受け続けることになる。
1990年に美輪明宏が「ぴりっとタケロー」に出演する際にこの歌を披露する予定だったが、放送局のTBSから歌のカットを求められた。
出演依頼があった際、美輪明宏は歌無しの出演を希望したが、制作会社の強い希望で「ヨイトマケの唄」を歌うことになった。
ところが、放送日2日前に突然「歌は止めて欲しい」という申し出を受ける。
一方的に二転三転する申し出に美輪明宏は憤慨し、出演自体を取り止めた。
このことがきっかけで美輪明宏はテレビで最近まで歌うことを避けていた。
この様に民放では放送が自粛されていたが、最近は規制が解除されたのか美輪明宏以外の多数の歌手によってこの曲が披露される機会が増えている。
なお、NHKでは発表当時から一貫して放送自粛の措置はとられていない。
「ヨイトマケの唄」歌詞
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